弘法大師空海
弘法大師 空海
弘法大師 空海は、現在の香川県善通寺市に宝亀(ほうき)5年6月15日にお生まれになりました。
十五歳になった真魚は、母方のおじである阿刀大足のもとで、漢文を学ぶようになります。大足は、桓武天皇の第三皇子の個人教師を務めたとも言われる有名な学者でした。そして延暦十(七九一)七年、十八歳で、当時の最高学府であった都の大学に入学します。各地に置かれた国学において学ぶべき地方豪族の子弟が、中央の大学に入るのは、異例のことでした。
儒学を学ぶ明経道を専攻したお大師さまは、中国の古典や歴史書を学習しました。お大師さまの勉強ぶりはすさまじく、首に縄を掛け、腿に錐を刺して睡魔を防いだと、みずから回顧しておられます。のちに多くの場面で披露されることになるお大師さまの漢文の素養は、このころに培われました。
厳しい修行
24歳の時、「仏教こそが最高の教えである」という考えを『三教指帰(さんごうしいき)』に著すと、山野を巡り修行する修行者となり、各地で厳しい修行を行いました。
ある夜、大和国久米寺に仏教の究極の教えである、密教を説いたお経、『大毘盧遮那成仏神変加持経』(だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう=『大日経』)があることを、夢の中で知り、この地を訪ね『大日経』にめぐりあいましす。しかし『大日経』の意味をすべて理解することはかなわず、日本には疑問に答えてくれる師もいない。そこで師を求めて、唐の国(中国)・長安へ留学することを決意しました。
遣唐使船で唐へ
延暦23年(804)31歳のとき、九州長崎から遣唐使船に乗り長安をめざします。航海の途中には暴風雨にあい、長い陸路の旅も幾多の苦難に遭遇します。お大師さまはその旅程を、「三つの大河に船を浮かべ、五つの嶺を馬で越えた」と表現しておられます。移動距離はおよそ二千四百キロに及んだと推測されており、藤原大使の報告書には、「まだ星が出ている早朝に宿を発ち、星が降る夜遅くに次の宿に着くという、昼夜を分かたぬ強行軍であった」と記録されています。十二月二十一日に長安郊外の長楽駅で出迎えを受けたお大師さまたちは、唐の朝廷からつかわされた立派な馬にまたがり、十二月二十三日、東の正門である春明門をくぐって長安城に入りました。シルクロードの起点にして、世界第一のメトロポリスであった長安。宣陽坊という地区の官舎に二ヶ月ほど滞在したお大師さまは、華やかなその市井を探索しながら、書法や詩論などの多彩な知識を吸収なさいました。そんな折、お大師さまの卓越した書の才能が、広く唐の人々の関心を集めるようになります。
伝説によれば、噂を耳にした唐の皇帝に召されたお大師さまは、宮中の壁に、両手、両耳、口に五本の筆をとって五行の書を一度に書き上げたと言われており、皇帝はお大師さまのことを「五筆和尚」と呼んで称賛したそうです。五筆和尚の逸話は、お大師様が様々な書体を巧みに書き分けたことの喩えですが、のちに入唐した天台宗の円珍上人は、福州の僧侶から、「五筆和尚はお元気ですか」と尋ねられたそうです。
正統な密教
長安では密教の師を求めて諸寺をめぐり、ついに、正統な密教を受け継ぐ唯一の僧侶、青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)にめぐりあいます。
恵果阿闍梨はお大師さまと対面するや否や、笑みを浮かべ、「私はあなたが来ることを知っていて、ずっと待ち続けていました。何と嬉しいことか、何と素晴らしいことか。私の寿命は尽きようとしている。すぐに密教の法を授かる準備をしなさい」とおっしゃったと、お大師さまはそのときの奇跡を書き記しておられます。
青龍寺の長にして、唯一、金剛界と胎蔵界の両部の密教を継ぐ、真言第七祖の恵果阿闍梨はそう切り出すと、お大師様に法を伝授し始めました。こうして青龍寺の門をたたいてわずか三ヶ月間で密教のすべてを授かった空海は「遍照金剛」という灌頂名を与えられ、正系密教の第八祖となったのです。すべてを伝えた恵果和尚は「一刻も早く日本に帰り、密教を広め人々を幸福にするように」とお大師さまにすすめます。そこでお大師さまは20年間の留学僧としての勤めを2年ながらも、その目的と得た価値の重要性をもって、帰朝することを決意されました。法を伝授して間もなく恵果阿闍梨は他界します。
真言宗の開宗
帰朝後は、恵果阿闍梨の教えどおり真言宗を開宗し、京都の教王護国寺(現在の東寺)、和歌山にある高野山を拠点として活躍します。その活動は、宗教活動はもとより、社会活動から、書、文芸など多岐にわたりました。
日本社会に偉大な貢献を残されました。
承和(じょうわ)2年(835)3月21日、62歳のご生涯を終え、高野山に入定されています。